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調音の滝公園

調音の滝公園

春の新緑、秋の紅葉と、滝は時々の自然と美しく調和し、訪れる人々にやすらぎを与えてくれます。夏はとりわけ心地よく、別天地の涼しさに我を忘れてしまうほど。カジカが鳴く清流では、そうめん流しの楽しみもあります。また、お茶やしいたけ、手作りこんにゃくなど自然の恵み豊かな物産もそろっていて、四季を通して魅力に溢れたステキなところです。平成7年には林野庁の「水源の森百選」にも選ばれています。 園内には、十代有馬藩主の妻、清雲院は巡行の折、滝の水音が音を奏でるかのように聴こえたことから由来する調音の滝をはじめ、魚返りの滝、斧渕の滝、三重(みしけ)の滝の4つがあります。四季折々の景色を眺めながらの散策をお楽しみください。

白壁の町並み

白壁の町並み

うきは市の中心部の筑後吉井地区は、江戸時代に有馬藩の城下町久留米と日田天領を結ぶ豊後街道の宿場町として大いににぎわい、江戸中期以降には精蝋、酒造、菜種の製油など農産物の加工品を製造し、「吉井銀(よしいがね)」と呼ばれる有力商人の金融活動などにより繁栄しました。明治2年(1869)の大火を契機として、吉井では草葺きの町屋にかわって瓦葺塗屋造が普及し、商家や地主は競って火災に耐えられるとともに冨を誇示するような豪勢な建築を建てるようになりました。経済の最盛期であった大正期に、ほぼ現在の町並みが形成されています。 現在でも、豊後街道の街路沿いに漆喰塗の重厚な土蔵造りの商家跡が連続する町並みと、災除川と南新川沿いに広がる屋敷群が約250ほど、ほぼ当時の姿のまま残されており、1996年には重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 本保存地区は、町屋や土蔵が連続する町並みと、豊かな緑に包まれた屋敷や社寺建築、さらに吉井の経済基盤を支えてきた河川や水路などが一体となって歴史的景観を形づくり、筑後地方の商業都市として、特色ある歴史的景観を今に伝えています。 ※白壁の町なみ散策へおでかけの際は、観光会館「土蔵」の無料駐車場をご利用ください。

清水湧水

清水湧水

臨済宗清水寺の境内にこんこんと湧き出る清水湧水は、昔から飲料水や生活用水、農業用水として利用され、貴重な命の水として地域住民の生活を支えてきました。昭和60年には環境庁の「日本名水100選」にも選ばれました。湧水量は1日あたり700tリットル余り自噴しており、水温17℃、無色透明、無味無臭でPH7・8度のきわめて良質の湧水です。 ※清水湧水を汲むのは無料ですが、整備費のため100円以上の寄付をお願いします。

つづら棚田

つづら棚田

新川・葛籠(つづら)地区の山あいの斜面には、面積7ha、約300枚の精巧に石で積まれた階段状の棚田があります。山の石を使い、丁寧に積み重ねられた石組みは約400年前のものです。 日当たりの良いところを農地にし、米作りを優先させたこの地域の家並みは、周りの山林の緑、森から湧き出る清水、青い空の景色と見事に調和し美しい農村景観をつくり出しています。平成11年には、農水省の「日本棚田百選」にも選ばれました。 石垣に縁取られた棚田の折り重なる曲線は、四季折々の景観を見せ、特に秋の米の収穫時期は、黄金の稲穂と真っ赤な彼岸花のコントラストが美しく、市内外から見物客が訪れる観光シーズンになります。

生葉郡中三十三 観音めぐり

生葉郡中三十三 観音めぐり

明治時代から行われており、現在は途絶えていた生葉郡(現在のうきは市)にある三十三観音めぐりコースを、うきは市スローライフ同好会が歴史を掘り起こし再現しました。コースは、吉井町、浮羽町に点在する観音様をめぐり、三十三番「清水寺」までの全行程約60km。生葉郡の自然環境や文化を満喫できる、うきは市の新しい観光コースとなっています。同好会では、散策マップ「風光明媚なうきは路を歩こうかい」を作成し、三十三観音めぐりを通して、交流や健康、心の安らぎを図ろうと取り組んでいます。三十三の観音様をめぐりながら、美しいうきは路に思いを馳せてみませんか? 毎年5月17日・18日の「生葉郡三十三観音めぐりの札打ち」の日には、各観音様において、地元の方が、訪れた方々にお茶や菓子等を配るなどの、おもてなしをしてくれます。

菊竹六鼓記念館

菊竹六鼓記念館

菊竹 六鼓(きくたけ ろっこ)は、「福岡日日新聞」(「西日本新聞」の前身)にて、5・15事件における少数軍人暴虐に対し痛烈な軍部批判を行った吉井町出身のジャーナリストです。菊竹六鼓記念館は、氏の功績をたたえ、主筆菊竹六皷の遺品及び記録を後世に伝える記念館で、展示室のほか和室やホールがあります。

金子文夫資料展示館

金子文夫資料展示館

郷土史家であり、収集家でもある金子文夫氏のコレクションと郷土玩具を集めた金子文夫資料展示館は、所蔵品の数は実に数十万点と膨大で、郷土の歴史をいろんな角度で知ることができる施設です。 氏が、永年にわたり収集した数十万点に及ぶ考古資料・民俗資料及び金子家の遺品の一部を、地域おこし、生涯学習の拠点施設として活用をはかるため、収集品の整理を進めながら展示しています。 ●金子文夫略歴 (うきは市吉井町新治出身 1912年4月生~2007年8月死去 ) 平成2年  文化財保護のための教育文化功労賞(福岡県教育委員会)受賞 平成3年  地方文化功労賞(文部大臣)受賞 

鏡田屋敷

鏡田屋敷

当初郡役所の官舎として建てられたといわれており、明治後期に郵便局長を務めた佐藤氏が居住し、その後、昭和初期に籠田氏が居住されました。平成3年の台風被害により取り壊されることになっていましたが、所有者の籠田氏により市に寄付され、修復されたのが現在の鏡田屋敷です。 この建物の正面部分は、1863年(文久3年)に建てられ、その後明治26年(1893年)に背面の座敷や2階の増築が行われました。明治期の吉井らしい豪華な造りとなっています。 (うきは市指定文化財)

居蔵の館

居蔵の館

この建物は、うきは市吉井町の重厚な町並みを形成した土蔵造りのなかでも、完成度の高い代表的な居蔵家(いぐらや)のひとつです。 道路に面した主屋を見ると、漆喰が塗られた壁、瓦屋根、軒の裏までも漆喰で塗り込められています。また、2階の窓は鉄製の扉によって覆われており、外部から延焼しにくい構造になっています。 幕末から明治、大正と繁栄をみせた土蔵造りの吉井の町並みも、第二次大戦後の経済・社会変動の中で、その多くが失われていきました。しかし、幸運にもこの建物は、関係者の理解に助けられて破却を免れることができました。 この「居蔵の館」は、明治末期に建てられ、大正初期に改築されてもので、製蝋業で財をなした大地主の分家として銀行経営に携わっていた当主一家が移り住んだものです。 戦後、しばらく空き家になって荒れていましたが、旧吉井町が譲渡を受け、ひろく見学者に公開することとなりました。

大石堰・大石堰遺跡

大石堰・大石堰遺跡

大石堰は、五人の庄屋の発願よって筑後川左岸に江戸期に開削されました。これによって、肥沃な大地が生まれ、久留米有馬藩領の水田石高は増大しました。現在もその恩恵を受け、うきはの農産業を支えています。大石水道のほとりには、五庄屋の偉業を称えた三堰の碑(さんえんのひ)があり、「筑後川は諸志に著はれ実に天下の大水なり」と碑の冒頭に記されています。 ●大石堰の歴史 ~五庄屋の灌漑工事の偉業~ 江戸初期の浮羽地方は、筑後川の沿岸にありながら土地が高く水利が極めて不便なところで水田にすることができませんでした。栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞の五人の庄屋は、筑後川の水をこの大石から水道へ引き入れ送水して下流域を水田化しようと決心。寛文三年(1663)9月にこの計画を久留米藩に提出しました。しかしながら、あまりの大事業であり、水路筋にあたる11カ村から「大石村から水路を開削して導水すれば、洪水時に導水路にあたる村は多大な被害を受ける」と反対運動にあいます。五人の庄屋は、自分たちの計画を貫く為の決意表明として誓詞血判を行い、「計画通り工事をしても損害はない。万一損害があれば、極刑に処されても異存無し」と主張し、同年12月、郡奉行や村人らに灌漑工事を認めさせました。 寛文四年(1664)1月、藩営事業として工事が始められ3月中旬に開通。翌年寛文5年に溝幅が拡張され、続いて6年、7年と拡張工事が実施されました。更に灌漑面積を拡大するため、延宝2年(1674)難工事の末、大石堰が完成しました。その後、大石長野水道は農民の永年の苦労と努力に支えられ、今も下流域一帯、約30平方キロに及ぶ水田地帯を潤しています。

村田英雄生家の石碑

村田英雄生家の石碑

昭和を代表する演歌歌手のひとり、村田英雄の生誕記念碑。日岡古墳の隣に位置する。1999年建立。

歌謡曲「王将」の碑

歌謡曲「王将」の碑

若宮神社内にある、村田英雄の功績をたたえ、ミリオンヒットにより第4回日本レコード大賞特別賞を受賞した氏の代表曲「王将」、裏面には「母の道」と刻まれる碑。6月上旬には「王将」の名にちなみ、将棋大会が開催されています。2000年建立。

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